人口の島、次々に生まれる
世界で一番長い木橋、コリンズ・ブリッジは10年も経たない1920年にビスケイン湾改良協会が買い、人口の島を数珠繋ぎに造り、その島々をベニス風の橋で繋ぐ企画を立てた。1921年に工事を始め、26年にはマイアミ側にビスケイン・アイランド、サンマルコ・アイランドが生まれ、サンマリノ・アイランド、ディリド・アイランドがマイアミビーチ側に完成した。 人口の島や、海、湾に面した土地に北東部の実業家、裕福な人達が邸宅を競って建て、1928年コリンズが死去する頃までには、ポロクラブも出来、フィッシャーが埋め立てて作ったラゴース・ゴルフコースも出来た。
(ラゴースはNatinal Geographic誌の編集長をしてたフィッシャーの友人。偏見がひどいので有名だった人。)
1930年代のマイアミビーチ、マフィアで悪名高いアル・カポネもマイアミビーチへ
コリンズが死んだのは1928年だが、その年の暮に悪名高いアル・カポネがマイアミビーチのパーム・アイランドに居を構えた。 1929年の不況に加え、連邦政府の禁酒法、ギャンブル、売春取締り法が成立し、マフィアがマイアミビーチにはびこった。 1939年フラミンゴホテルに休暇で来たFBIのチーフ、J・エドガー・フーパーは、マイアミ近辺の犯罪、汚職について批判し、FBIのエージェントがいずれ調べることになるだろうと述べた。 これに対して「犯罪がはびこるのは、言わなくても分かっている。批判する代わりに、どうしたらいいのか教えてくれれば良いのに。」とマイアミビーチの市長ジョン・レビが答えたほどだった。
人種差別
コリンズ、フィッシャーのマイアミビーチとルマスのマイアミビーチ
車も1910年には184人に1台の割合だったのが、30年代になると5人に1台となり、マイアミビーチに避寒に来るのは裕福な人の特権ではなくなった。 リンカーン・ロードを境目に南と北の違いは、サウスビーチを持っていたルマス兄弟と17ストリートから北の地域を持っていたフィッシャー、コリンズのマイアミビーチ開発に対する観念の違いから来た。 フィッシャーとコリンズは、第二のパームビーチとしてのマイアミビーチを考えていたのに対して、ルマスは裕福な人達の避寒地としてではなく、質素な住宅地、一般受けするホテルを考えていた。 40年代以前のマイアミビーチは人種差別がひどく、黒人がマイアミビーチに住むことは禁止されていた。 土地売買の契約書に「白人のみ」と書いてあるくらいだった。 ユダヤ人に対する差別偏見は、コリンズ、フィッシャーのマイアミビーチで顕著だった。 「ユダヤ人お断り」のサインもあるくらいだった。 が、サウスビーチ(リンカーンロードから南)ではさほどの差別もなく、ジョー・ストン・クラブを開けたワイズ家族も20年代からサウスビーチに家を持っていた。 40年代には、 マイアミビーチの5分の1だったユダヤ人の人口も1947年には半分になっていた。 それでも「Gentiles only」つまり、「ユダヤ人お断り」のサインが禁止になったのは1949年のことだった。 が、フィッシャーの死後、ホテルの数々を買ったのはユダヤ人だったのは皮肉と言えば皮肉な話である。
カール・フィッシャーの大事業
車販売に執着、インディアナポリスでレースを始めた男
フィッシャーは車の販売がメインだったことから「どうしたら車が売れるか」を終始考えていた。 マイアミビーチに来る前には、ヘッドライトがあれば夜間でも運転できる、とヘッドライトを発明し、製造、販売した。 そして、その会社を売ったお金でマイアミビーチの土地を買収、開発につぎ込んだ。 また、車に興味を持たせるためにインディアナポリスにモータースピードウェイを建設、レースを始めた。 1911年にはスピードウェイをレンガ造りにし、インディアナ500を始めた。 マイアミビーチに手をつけた後も、大陸横断道路があればもっと車が売れると「コースト・ツー・コースト・ロック・ハイウェイ」プロジェクトとして自分でも1100万ドルをつぎ込む覚悟で資金集めを始め、グッドイヤーのサイバリングなどの支持を受けた。 ヘンリー・フォードにも投資を頼んだが、フォードは民間のお金で道路建設をすることに反対し、最後まで寄付を拒んだ。 フィッシャーは「リンカーン・ハイウェイ協会」の名のもとに道路建設をし、1915年に一部未完成の部分を残して開通させた。 完成したのはそれから15年後。 ルートは今のルート80とほとんど同じである。 東西横断だけでなく、自分が投資したマイアミビーチに人を集めるには、南北を走る道路も必要と考えたのは当然のこと。 1914年までにには、シカゴ−マイアミ間のデキシー・ハイウェイの構想がまとまっていたようだ。 が、ハイウェイのルート争いが各州、各町であり、それから10年以上かかって建設が始まることになる。
ジョーズ・ストーンクラブ
まかない食で始まったストーンクラブ
ハンガリー生まれのジョー・ワイズは、ニューヨークのレストランで働いていたが、喘息持ちで、医者に暖かい所で暮らすように薦められ、1913年マイアミビーチへやって来た。カジノのランチ・スタンドで働き、カジノの近くに住んだ。 マイアミビーチのユダヤ人住民第一号だった。貯金して貯めたお金で、カジノの向かいにレストランを開けた。
ストーンクラブをメニューに入れたのは開店してから数年後。 水族館の仕事で来たハーバード大学の魚類学者が、サウスビーチにたくさんいる蟹のハサミは殻が固くてあまり美味しくないが、食べられるものだと教えてくれた。
ジョーは、従食には使えるとそのハサミを茹でて冷やして従業員に食べさせた。 その美味しさは抜群で、お客に出すことにしたのがジョーズのストーンクラブの始まりである。
アール・デコ
数年で埋め立てに埋め立てを重ねて広くなった無人島が、1915年にマイアミビーチ市として誕生した。 人工島も
増え邸宅が建ち、金持ちの避寒地として栄えていた30年代までには、マイアミビーチを結ぶ自動車道路もマッカーサー・コーズウェイ、ベニシアン・コーズウェイ、ジュリア・タトル・コーズウェイ、それに79ストリート、ノースベイを通り、マイアミビーチの71ストリートを結ぶコーズウェイも完成していた。 リンカーンロードの南には、ジグザグ・モダンから後にアール・デコを呼ばれるようになった「デプレッション・モダン・スタイル」の建物が次々に建てられた。
ほとんどが避寒用のアパートやホテルで、内装もシンプルで実用を重んじたものだった。 レンタルは、平均一日5ドルから7ドルで一般受けした。 不況風が吹き始めていた1936年と37年に、ホテルが188軒、アパートが618軒建設された。 大変な建設ブームだったと言える。 当時は、アール・デコとしては知られていなかったこれらの建物は、やはりあまり知られていなかったモダン派の設計家たちが設計したのだった。 ヘンリー・ハウザー、ロイ・フランシス、ムレイ・ディクソンがデザインした建物は、「客船をそのまま建物にしたようだ。」と馬鹿にされたり、「貧しい地域に相応しく、極端に節約した建物」とも言われた。
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