マイアミビーチは細い無人島だった
人口は約10万人(ただし、シーズン中にセカンドホームとしてくる人口は含まない)。 南端から86ストリートまでがマイアミビーチ市。面積にして市に属する16の小島も含めて5000エーカー、つまり、約612万坪、20.24平方キロメートル。面積にすると藤沢市の3分の1。テケスタ族の埋葬地だったと思われる塚はサーフサイドあたりで発見されているので、白人がフロリダにやってくる前には、原住民が住んでいなかったとは言えない。が、マングローブと藪に覆われた、細長い名無しの無人島だった。人影と言えば、クロコダイル鰐がうようよしていたマングローブ・ジャングルに遊びにくる好奇心の強い人たちか、難破した船から逃れてきた人くらいだった。この無人島にも小屋が一つ、避難小屋があり、ビスケイン・ハウスと呼ばれたこの小屋には1845年以降、管理人と称する人がいた。
無人島からココナッツ農園へ
フロリダ州が合衆国の一員となった1845年から、未開発土地開発奨励が始まった。未開発の土地を民間人に安く払い下げ、開発を進めようというものだった。南フロリダ全体が未開発で、しかも湿地帯のジャングル。それでも多くの人が一攫千金を夢見て、安く土地を買っていった。
1881年、ヘンリー・ラム(当時61歳)がサウスビーチ一帯を1エーカー(1240坪)35セントで買い上げた。ラムは1868年息子チャールズとキーウエストからヨットでビスケイン湾の東側を探検した際に発見した三本の椰子の木にアイディアを得、ココナッツ農園を考えた。ペンシルベニアで農業を営んでいたヘンリー・ラムの発想だった。その話を聞きつけた人たちもそれに続いた。エズラ・オズボーンとエルネ‐サン・フィールドの二人は、60人もの投資者を募りラムの土地の北約65マイル(104キロ)分を買った。投資者はニュージャージーのクエーカー教徒達だった。マングローブのジャングルを取り除き、農園にするために30人弱を雇い、ニュージャージーからキーウエスト経由で連れてきた。ココナッツはトリニダから輸入した。キーウエストで船をチャーターして、トリニダに行き、椰子の実を10万個買い、キーウエストの税関を通った後、船底の浅い帆船スクーナーに積み替えて持ってきた。1年間に合計30万個の椰子の実を輸入し、10万個はラムの農園で、その他はオズボーンとフィールドの農園に植えた。
失敗に終わったココナッツ農園
マングローブ、藪を掘り起こし、取り除く仕事は容易ではなかったが、作業員はクロコダイル鰐、蚊、野生動物に悩まされた。その上、いままでは海麦を食餌にしていた野ウサギが椰子の芽を好んで食べるようになり、椰子は木に成長する機会さえなかった。野ウサギ退治に毒付のとうもろこしをばら撒いたが、とうもろこしなど見たことがなかった野ウサギは見向きもしなかった。
アボカド・マンゴ農園に切り替える
3年後、オズボーンとフィールドが経済的に行き詰まった時に、投資をしてくれたのが、ジョン・コリンズだった。海岸づたいにある広大な土地に興味を持ったのだった。コリンズもクエーカー教徒で農業に従事していた。南フロリダに始めて足を踏み入れたのはヘンリー・フラグラーの鉄道がマイアミに通じた1896年。ココナッツ農園の失敗を目のあたりにしたコリンズは、アリゲーター梨と呼ばれていたアボカドとマンゴの農園を始める計画を立て、準備にかからせた。が、オズボーン・フィールド側と意見が合わなかったため、1907年に現在の14ストリート当たりから、73ストリートまでをフィールドから買収し、3000本のアボカドを植えた。
アボカドとマンゴの果樹の間にはポテトと豆が植えられた。が、風が強すぎ、アボカドもマンゴも満足に育たなかった。コリンズは防風のためにオーストラリアン・パインと呼ばれる松を植えさせた。アボカド栽培がうまくいきそうになった1911年、コリンズはアボカドの出荷がし易いように運河を掘りだした。が、お金が底をつき、ニュージャージーの息子たちに助けを求めた。やって来た息子たちは、全く違った見地からこの土地の将来性を判断した。農園ではなく、分譲して売れる不動産としての価値を多いに認めたのだった。息子達はこの土地に第二のアトランティック・シティが出来る夢を抱いた。
マイアミと島を車で渡れるように橋をかけることが夢実現に絶対必要であると考えた。 農業が主だった父親も、運河を掘る資金を出してくれることを条件に、橋の建設を約束した。こうして出来た会社が、「マイアミビーチ改良会社」。 史上初めて、「マイアミビーチ」という名前が現れたのだった。
観光地マイアミビーチの兆し
鉄道がマイアミまで通じた年からマイアミ側は避寒地として栄え始め、ホテル建設も進んでいた。 マイアミの銀行
の頭取をしていたルマス兄弟は、ラムとウィルソンが持っていたサウスビーチ一帯580エーカー(72万坪)を8万ドルで買い、マイアミからビーチへ遊びに来る人のためのフェリーサービスを始めたほか、フェリーからビーチへお客が
歩いて行きやすいようにボードウォークを建設し、ビーチ近くにシャワーが浴びられる施設も作った。
マイマミから島に橋をかけることに反対したのはこのフェリー会社だった。 車で行けるようになれば、フェリーの商売は成り立たなくなるからである。 コリンズが橋建設許可をとった途端に不動産屋が動き始めた。 ルマス兄弟も宣伝を始め、コリンズも土地の一部を切り売りした。 世界で一番長い木の橋「コリンズ・ブリッジ」はマイアミ側から建設が始まった。 1.6キロにつき5万ドルかかったこのプロジェクトのために、コリンズはルマス兄弟の銀行から融資を受けたが、あと800メートルを残してお金が底をつき、橋はブル島止まりとなった。 ブル島止まりのこの橋は全長2.5マイル(約4キロ)、1912年6月12日に開通した。 通行料金は、一人乗りの車は15セント、二人乗りは20セント、観光バスは5ドルから15ドルだった。
農園から避寒地へ
この頃マイアミにやって来たのがカール・フィッシャー。 フィッシャーは自転車修理屋から自動車販売に転身し、ヘッドライトを発明し、製造販売した人である。 ユニオン・カーバイト社に9百万ドルでヘッドライトの会社を売ったフィッシャーは、その冬にコリンズに出会い、橋完成のために必要な5万ドルと引き換えにコリンズの土地をもらった。
フィッシャーは買収した地域を「オルトン・ビーチ」と呼んだ。 (「シカゴ・ノースウエスタン・アンド・オルトン鉄道会社」から思いついた名前。) ルマス兄弟にも15万ドルを融資し、サウスビーチの土地開発を急がせた。 当時のサウスビーチはまだマングローブ・ジャングルだったが、埋め立てもし、1912年から「バケーション・ホーム」と宣伝、土地分譲販売を始めた。 コリンズも時を同じく、農園の一部を整備し、分譲して売り始めている。
埋め立て・不動産ブーム・・・一石二鳥のアイデア
フィッシャーは裕福な避寒客を対象に考えていた。 ビスケイン湾の水深を深め、ボートやヨットが通れるようにし、冬の邸宅にはボートやヨットを横付けできるようにしなければいけないとも考えた。 そこで、一石二鳥の案、つまり、水深を深めるために海底の土砂を掘削すると共に、その土砂を使い、埋め立てをして島の土地を広くしていくことにした。 クロコダイル鰐がビーチからいなくなったのもこの頃で、土地開発、掘削、埋め立ての騒音で鰐が逃げて行ったとも言われている。 フィッシャーはビスケイン湾でレガッタをし、冬の行事として北から客を集めることにした。 ブル・アイランドと呼ばれていた島は、1915年1月にベル・アイランドと名前を改め、レガッタのためのスタンドが作られ、第一回レガッタが行われた。 フラミンゴ・ホテルも後に建設され、リゾートとしてのマイアミビーチが徐々に出来上がって行った。
マイミビーチ市の誕生
1915年3月26日、島の不動産会社三社が集まり、三社合意のもとに「オーシャンビーチ市」が誕生した。 J.N.ルマス(弟の方)が初代市長に選ばれた。 市長として一番にしたことは、海と平行している道を「コリンズ・アベニュー」と改めたこと。 また、11月には、自分の持ち物だった15ストリートから南の大西洋側のビーチを市に4万ドルで売り、市営公園にした。 (数年後、安すぎたとして、市に追加分の請求をしたが、拒否された。)
フラミンゴ・ホテルが出来、裕福な避寒客が増えてくるにつれて、フィッシャーは高級ショッピング街の必要性を考え、リンカーンロードと名付けたみちの両側に、椰子の木を植え、ショッピング街の下準備をした。
また、リンカーンロードの北、ジェイムス・アベニューにガラス張りのテニスコートも建設、コリンズのカジノを買い取り、ローマン・プールを開設した。 一方、ルマス兄弟は埋め立てにお金がかかり、土地開発に遅れをとっていたので、フィッシャーにサウスビーチの西半分を売るはめになった。 1916年から17年にかけて、マイアミとマイアミビーチを結ぶコーズウェイの建設が始まった。 1920年に完成したコーズウェイは(後にマッカーサー・コーズウェイと改名された)港への海路の水深を深くするために海底の土砂を掘削し、その土砂を使って埋め立てされて出来たが、コーズウェイの途中に出来たスター・アイランドはフィッシャーの会社が埋め立てた、人口の島の第一号だった。
マイアミビーチの開発は、1917年の4月から約1年半、第一次世界大戦のために一時停止したが、戦後の発展は目覚しかった。
日本人2人がマイアミビーチの緑化に携わる
1916年、フィッシャーが自分の邸宅をマイアミビーチに建設するに当たって、庭師の広告を出したところ、日本人二人が応募してきた。 須藤幸太郎と田代重二だった。 二人は神奈川県足柄郡出身で同郷。 田代氏は1899年に渡米、須藤氏は1年後に渡米した。 10数年カリフォルニアで仕事をしていたが、1916年からフィッシャーの庭師として雇われ、フラミンゴホテルが建ち始めた頃からフィッシャーの会社、マイアミビーチベイショア社の造園師となり、ホテルの庭造りから街路樹まで手掛けた。 フィッシャーが埋め立てに使ったのは砂で、緑化作業は容易でなかったことは想像がつく。 1930年代後半からは二人で独立し、植木屋、造園を主に手掛けた。 1930年代後半と言えば不況時代だったが、マイアミビーチ市の路傍に無料で草花を植え、市の美化を図った。
田代氏は1954年に死去。 須藤氏は1953年に日本に帰国した。 が、日本の変わり様に幻滅を感じ、半年で再度マイアミビーチに戻り、市民権をとり、米国で骨を埋めている。 須藤氏は在命中日米親善に非常な貢献をしたとして、日米両政府から感謝状をもらっている。(田代氏の子孫はいまでもマイアミビーチに居住。)
人口の島、次々に生まれる
世界で一番長い木橋、コリンズ・ブリッジは10年も経たない1920年にビスケイン湾改良協会が買い、人口の島を数珠繋ぎに造り、その島々をベニス風の橋で繋ぐ企画を立てた。1921年に工事を始め、26年にはマイアミ側にビスケイン・アイランド、サンマルコ・アイランドが生まれ、サンマリノ・アイランド、ディリド・アイランドがマイアミビーチ側に完成した。 人口の島や、海、湾に面した土地に北東部の実業家、裕福な人達が邸宅を競って建て、1928年コリンズが死去する頃までには、ポロクラブも出来、フィッシャーが埋め立てて作ったラゴース・ゴルフコースも出来た。
(ラゴースはNatinal Geographic誌の編集長をしてたフィッシャーの友人。偏見がひどいので有名だった人。)
1930年代のマイアミビーチ、マフィアで悪名高いアル・カポネもマイアミビーチへ
コリンズが死んだのは1928年だが、その年の暮に悪名高いアル・カポネがマイアミビーチのパーム・アイランドに居を構えた。 1929年の不況に加え、連邦政府の禁酒法、ギャンブル、売春取締り法が成立し、マフィアがマイアミビーチにはびこった。 1939年フラミンゴホテルに休暇で来たFBIのチーフ、J・エドガー・フーパーは、マイアミ近辺の犯罪、汚職について批判し、FBIのエージェントがいずれ調べることになるだろうと述べた。 これに対して「犯罪がはびこるのは、言わなくても分かっている。批判する代わりに、どうしたらいいのか教えてくれれば良いのに。」とマイアミビーチの市長ジョン・レビが答えたほどだった。
人種差別
コリンズ、フィッシャーのマイアミビーチとルマスのマイアミビーチ
車も1910年には184人に1台の割合だったのが、30年代になると5人に1台となり、マイアミビーチに避寒に来るのは裕福な人の特権ではなくなった。 リンカーン・ロードを境目に南と北の違いは、サウスビーチを持っていたルマス兄弟と17ストリートから北の地域を持っていたフィッシャー、コリンズのマイアミビーチ開発に対する観念の違いから来た。 フィッシャーとコリンズは、第二のパームビーチとしてのマイアミビーチを考えていたのに対して、ルマスは裕福な人達の避寒地としてではなく、質素な住宅地、一般受けするホテルを考えていた。 40年代以前のマイアミビーチは人種差別がひどく、黒人がマイアミビーチに住むことは禁止されていた。 土地売買の契約書に「白人のみ」と書いてあるくらいだった。 ユダヤ人に対する差別偏見は、コリンズ、フィッシャーのマイアミビーチで顕著だった。 「ユダヤ人お断り」のサインもあるくらいだった。 が、サウスビーチ(リンカーンロードから南)ではさほどの差別もなく、ジョー・ストン・クラブを開けたワイズ家族も20年代からサウスビーチに家を持っていた。 40年代には、 マイアミビーチの5分の1だったユダヤ人の人口も1947年には半分になっていた。 それでも「Gentiles only」つまり、「ユダヤ人お断り」のサインが禁止になったのは1949年のことだった。 が、フィッシャーの死後、ホテルの数々を買ったのはユダヤ人だったのは皮肉と言えば皮肉な話である。
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